岡村 愛奈(仮名)

学生・22歳

たてものスペシャル

目標:30分で書く

 

国際芸術祭あいち2022一宮会場に行ってきた。広くて一日では全部回りきれなかった……。

アンネ・イムホフの映像作品がとてもよかった。具体的なテーマ等はあまり汲みきれなかった気がするが、とにかくかっこよく、解説を読む前に映像を観はじめたのでずっと何が起こってるのかよくわからなかったが何の映像なのかよくわからないまま気づけばかなり長らく見入ってしまっていた。閉業したスケート場というロケーションもとても良かった。

 

一宮は、駅もでかくて綺麗だし活気のある町なのだが、古い建物も随所に残っていて、それも文化財として丁重に保存されてるやつや、今風にリノベーションされてる感じのやつもあれば、昔からの役割をそのままバリバリ現役で果たしていたり、引退したそのままの姿でたたずんでたりするようなやつも多数あって、歩いていてとても楽しかった。以下写真のコーナー。

 

すみずみまで可愛らしい商店街ビル

 

たばこ屋。ぽってり厚みのあるモダンで洋風な建物の上に和風の平屋みたいなやつが生えている。側面にべたっと貼りつけられたコンクリ壁の無骨さもキュート

 

きれいに蔦に覆われて、建物の四角さとそこから飛び出た鉄の梯子やら手すりやらの頼りなさが際立つ

 

ウバ車!日本フランス人形!

 

飛び出て乗っかってる建て増しスペース。住んでいる本人はたぶんまったくそんなことないのだろうけど傍目には秘密基地っぽくてわくわくする

 

トマソン(純粋階段)

 

夕食に吸い込まれた店

 

全然一時間超えてた。

 

 

 

ユニバの思い出

実に一周間ぶりのお日記である。

 

日記を書いていなかったここしばらくのあいだに、大阪に住む友人の家にみんなでお泊りして、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行った。すごい楽しかった。

 

すごい楽しかったと同時に、自分がすごい楽しんでいたという事実にちょっと驚いている。自分の性格は遊園地にかなり不向きだと思っていたからだ。

 

文字の書いてあるTシャツが苦手だ。「Have A Nice Day!」と書いてあるTシャツを着ているあいだは、私は何をしていようと「Have A Nice Day!」と訴え続けている。飯を食っていようと、ぼんやりして改札に止められていようと、誰かを本気で叱りつけていようと、その間にも私は「Have A Nice Day! の人」から逃れることはできない、その居心地の悪さ。(このあいだの日記で「ISHIDAKI(石抱き)」って書いてあるTシャツを買ってたけどあれは突き抜けてどうでもよすぎるから良いのだ)

ギャグ漫画で登場人物が困り果てていたり怒ったりしている様子がポップでコミカルに描かれたりする場面、普段ぜんぜん楽しく読んでるけど、自分だったらたまったものではないなと思う。たとえ当人が主観的にどんなに辛かろうと、深刻に怒りを表明していようと、ひとたびギャグ漫画のコミカルな記号に収めてしまえば、それは問答無用で楽しいお話を飾る愉快な一コマになってしまうという残酷さ。動物の映像に人間が可愛らしい感じのアテレコを付けるやつもこれと同じような嫌さがある。

全校集会で生徒指導の先生が登下校中の態度の注意などをいかにも深刻な口調で生徒に語り聞かせて、その後ろで全然関係ない他の先生たちも一緒になって困った顔をしてウンウン頷いて、皆して深刻な空気を作り上げに行って自らそのパーツに成り下がりに行っているときの醜悪な感じも未だに鮮明に覚えている。

 

人の気持ちや振る舞いが外から記号的に規定されるというか、そういう状況がどうやらすごく苦手だ。自分を規定する俯瞰的な視線を意識したとたん、歩き方を忘れたようにすべての振る舞いがぎこちなくなる。

そういう意味では、「楽しむための場所」そのものである遊園地に行くというのはまさにもう記号の中に身投げするような行為であって、たとえば何かとんでもない事件が起こって来園客が皆楽しむどころではない空気になったりとか、そこまでいかずとも一瞬ふと我に返って冷静になったりでもすることがあったとたん、遊園地という場と心の内とがものすごい勢いで摩擦を起こして奏でる不協和音を想像すると恐ろしくて仕方がなく、はたしてこのお泊りUSJ会を私は楽しむことができるのか、実は不安で不安で仕方なかった。

しかも今回、私以外全員が当日のためにキャラクターの耳のカチューシャを持参していたことが当日判明した。私も着用を勧められたが、気が気ではなかった。おいおいおい、そんな楽しげなもん付けちまって、喧嘩でも起こったり小隕石でも降ってきたりしたらどうするんだ、その楽しげアイテムを身につけたまま罵声を浴びせあったり、悲鳴を上げて逃げまどったりするのか、そんな姿だいぶ滑稽だぞ、あるいはかなぐり捨てたりするのか、それはそれでだぞ、と。

 

ところが蓋を開けてみたらどうだ、めちゃくちゃ楽しかった。アトラクションで多分いちばん叫んでたし、耳もノリノリでずーっと付けてたし、最後はみんなで指ハート作って自撮りとかしてた。

もしかすると、私も多少は大人になって、今日は何としてでも楽しい感じでやってやるぜとある程度開き直れるようになったのかもしれない。外の世界に対する自分の内面の強固さをあんまりあてにしなくなったというか、わざわざ張り合うほどの元気がなくなってきたのかもしれない。しかしそれよりも、まず安心できる友人たちと一緒だったことと、なによりそんなしみったれたことを考えている間もないほど暴力的なまでに驚きと楽しさに溢れたUSJという場のおかげだろう。

全てが客を楽しませるために作られている場、というのは来る前はプレッシャーでしかなかったが、実際に訪れてみるとそのすごみは想像をはるかに超えていた。ことニューヨークエリアやハリー・ポッターのエリアの街並みは作りこみがすごくて、散歩しているだけで何時間も楽しく過ごせそうだったし、新しいマリオモチーフのエリアの景色なんてもう文字通りこの世のものとは思えなかったし、各種アトラクションもとても魅力的だった。ハリーに連れられて魔法の箒でホグワーツの敷地をグワングワン飛び回りながら自意識がどうとか考えている余裕はなかった。

スーパー・ニンテンドー・ワールド。写真に撮ったら微妙にピントが合わず、かえって本当にCGグラフィックみたいな質感になった

本当に、自分が普段いかに自分の内面世界を過信して、狭い見識の中で思い上がっていたを思い知らされた。こんなに力の入った隙のない暴力的な楽しさの前では、私のみみっちい自意識などひとたまりもないのだ。本当に行けてよかった。これからはいろんな楽しそうなことを、恥ずかしがったり変な意地を張ったりせず積極的に楽しみにいきたい。

 

帰ってからUSJの思い出を書くぞ書くぞとウダウダしているうちに丸1週間日記をほったらかしてしまった。結局思い出というよりほぼ自分の内面の話に終始してしまったし、この一週間もうちょっと他にもあったが、疲れたのでもうこのへんにしておく。これからは毎日ちゃっちゃと書くぞ。

 

 

 

大遅刻日記

日記面倒くさくなってきた!どうしよう!!思ったことを言葉にするの面倒くさすぎる!!

もう毎日じゃなくてもいいってことにしようかな、すでに毎日じゃなくなってるし……でもそうしたらいよいよ何も書かなくなる気がする。

 

ついに解放されて、いろいろした。

まず「国際芸術祭 あいち2022」(ありていに言ってしまえば「あいちトリエンナーレ」が名前を変えて再始動したやつ)の愛知県美術館会場を、中学校ぶりに会う友人たちと一緒に観に行った。彼らとは、皆苗字があ行始まりで中学入学当初の席が近く、よく話していた。いま偽名として岡村愛奈という名前を気に入って使っているのは、あ行始まりの苗字に愛着があるのかもしれない。

展覧会について、全体を通した感想みたいなのはちょっと思いつかないんだけど、個別にはジミー・ロベールという人の作品に特に惹かれた。ダンサー(作者)がポーズをとった姿の写真を印刷した大小さまざまな紙が、円筒に丸めたり、いくつかのパーツに切断したりといった簡単な加工をされた上で配置されているという、シンプルな作品だ。ダンスを観る楽しさには、ダンサーの体の動きを見ながら、その筋肉の収縮だとかの感覚を想像して自分の感覚に重ね合わせ、動きの感覚を追体験する(たとえそれが実際自分に不可能な動きであっても)、いわば「ノる」、というのがあると思うけど、この作品では、ダンサーの身体の上に、丸め・たわみ・並び替えという物理的な紙特有の質感が重ね合わされて、まったく味わったことのない新鮮な身体感覚が呼び起こされて面白かった。

後の予定があったので後半ちょっと駆け足になってしまったうえ、友人たちともあまり話せなかったのが惜しまれる。

 

そのあと今度は中学校以来よく一緒に遊んでくれている友人二人と一緒にPerfumeのライブを観に行く約束があった。その前に片方の友人の家に集まって、私から友人に誕生日プレゼント(4月なのだが)を渡したり、二人が私に誕生日プレゼント(6月なのだが)をくれたり、Perfumeオタクの友人が持参した過去のライブ映像を鑑賞したり、Perfumeオタクの友人が前乗りして買ってきてくれたおそろいのツアーTシャツに着替えたり、そのまま近くのミスタードーナツへ赴いて飲茶メニューを楽しんだりしてからライブ会場に向かった。

とてもおいしい


私はPerfumeのことはあまり知らずに行ったのだけど、本当に楽しかった。皆さん本当に綺麗でかわいいしダンスがとてもかっこよい。MCもあたたかく楽しくて、今やものすごい規模で活動しているユニットであるのにファンの人たちのことをよく見ていることにとても驚いた。それから華やかな演出にも目を見張ったが、意外にも裏方の存在感がしっかりあるライブで、舞台装置の転換や小道具の受け渡しに人の手の泥臭さがあった。あ~ちゃんがMCで裏方の人たちのことによく触れていたのが印象的だった。「どんなに技術が進んでも、ひとのあたたかさは無くならない」と言っていたが、逆にあの人たちが近未来的なイメージや技術をすすんで取り入れていくのは、人のあたたかみの強固さへの信頼の表れなのかなと思った。

 

私は過去の自分がどうにも好きになれず、とくに中学生の頃など恥ずかしくて思い出すとウワァーとなってしまうのだが、そんな中学生の頃の自分をすぐそばで見ていた人たちが、その後もこうやってずっと仲良くしてくれたり、久しぶりに遊んでやってもいいかなと思ってくれたりしているということに本当に救われる。

 

一晩寝て起きて体はくたくただったが、ライブを観ていたときの、いまにも自分の体があんなふうにしなやかに軽やかに動き出しそうな幻想が、しばらく魔法のように体の内側でうずいていた。

 

 

各種衝動

寝てた!

 

前日明け方というか朝まで日記を書いていたので、起きたときにはもう夕方3時だった。

太陽を盗んだ男』を観た。アイドルマスターシャイニーカラーズのシナリオで浅倉透が観てたので気になったからだ。自分でも持て余してしまうような巨大な力を抱えこんで、何かしでかしたい衝動があるのに何をしたいのか自分でもよくわからない、というのが確かにちょっと浅倉透に重なるかもしれない。ちなみに浅倉透は途中から寝てて結末を知らないらしい。浅倉透のシナリオも後で読み直したい。

映画を観ているところに母が帰ってきて、そういう古い映画が好きなら絶対にこれも観てほしいという強いプッシュを受けてそのまま『熱海殺人事件』を観た。警察の人たちがめっちゃ頑張る映画と警察の人たちがめっちゃしょうもない映画を立て続けに観て混乱した。

 

今朝シャワーを浴びながら、給湯器のリモコンに付いている呼び出しボタンが目に留まった。入浴中にボタンひとつで人様を呼びつけられるというのが面白くて、幼少期はやたらとこのボタンを押下して楽しんでいた。親も親で万が一本当に溺れていたりしたら事なので、家事等を中断してでもいちおう見に行かないわけにはいかず、今思うとだいぶタチが悪い。

幼少期あれほど大好きだったのに、今の今までこのボタンのことはすっかり意識の外だった。このままではもし本当に浴室でピンチに陥ってもこのボタンを押す発想が出てこずそのまま息絶えていたかもしれないので、思い出せてよかった。

 

 

 

ミーのハー

昨日のぶんを書いている途中で寝てしまった。今日のぶんと昨日のとを合わせてデカい一日としてお送りします。

 

 

しばらくの間、濃厚接触者として家族もろとも家に閉じ込められていたのだが、今日から家族たちが隔離を解かれて社会復帰した。日中の間は家に誰もいないので、今日は久しぶりに自室を飛び出し、居間で寝転がって日がなテレビを見ていた。なんかEテレのゴールデンタイム的なやつがだいぶ後ろにずれこんでて驚いた。おかあさんといっしょが夕方6時とかからやってる。

 

録画していた「デザインあ neo」を観た。ありていに言ってしまえば小山田圭吾の一件ののちしばらく放送休止になっていた「デザインあ」が音楽制作スタッフを入れ替えて再始動したやつだ。これまではコーネリアスが単独で担当していたが、新しい担当には青葉市子・蓮沼執太・安部勇磨と複数人がクレジットされている。

デザインあ」の突然の休止と長らくの沈黙に戸惑いながら番組の復活を求めるファンの中に、「番組に罪はない、音楽だけ差し替えて放送再開を」と主張する人はたくさんいた。私はそういう意見を、番組の構成要素としての音楽をすごくないがしろにした無責任な態度だなと思って嫌悪していた。でも実際に制作陣が今のこの方針で放送を再開すると決め、実現させたことは、そういうファンの発言の軽々しさとは別に、とても重みのあることだと思った。

番組はとても良かった。コーネリアスの不在を、何か似たようなものや何か別の良い感じのもので埋め合わせるのではなく、空いた穴の輪郭をなぞるような形で補おうとしているのかなというのは、後任に誰か新しい音楽監督を一人置くのではなくて、コーネリアスや旧「デザインあ」とかかわりのある人を含むミュージシャン複数名を当てたということからも何となく感じていたが、実際に観てみて、音楽は前作の雰囲気を保ちつつも確実に後任の皆さんの持ち味で新鮮だったし、コーナーの内容や映像にも、音楽が変わったのに合わせてコンセプト面にちょっと変化が感じられた。新しい良さが多分に盛り込まれていて、驚きが多くとても面白かった。本当に良かった。映像の美しさ、気持ち良さは相変わらずずばぬけている。

でも、たとえば音楽の中にたまにだいぶ意識的にコーネリアスの作風に寄せに行っているなと感じる箇所があったり、あと前作から持ちこしているコーナーに、明らかに前作の同じコーナーの曲調に似せて作られた違う曲がついていたりするようなところから、ふとこの番組がきれいなリニューアルになりきることもできないこと、辿っている経緯に歪さがある以上どうしても「そこにいないはずの人の影」が濃く落ちていて、この番組をそれ自体で完結したものとして良い作品だねと言えないことが思われ、実際「デザインあ neo」がとても素敵な番組だっただけに、なんだかものすごくやるせなく感じる。

その上でNHK側は本当に旧「デザインあ」を「デザインあ neo」からきれいさっぱり切り離して、あたかも最初からこういう番組でしたよみたいな顔をしようとしているように見えるのがかなり腹立たしい。公式ツイッターも同じアカウントの転用ながら過去のツイートはすべて削除しているし、ちょっと許せないのが、前作の独立した番組HPが削除されて、古いリンクはすべて現在のNHKのHP内にある「デザインあ neo」の番組情報だけが書かれたページに統合されてしまったことだ。旧HPには、各コーナーの過去放送回のアーカイブ(たしか動画ではなかったけど)や、パソコンで動かして遊べるちょっとした仕掛けのほか、さまざまな立場の制作スタッフたちが交代で書き残した膨大なブログ記事が含まれていた。音楽制作のコーネリアスももちろん寄稿していたし、監修、映像作家、ディレクター、出演俳優、そのほか様々なスタッフが、制作の裏話や解説、現在の仕事に携わった経緯や自分の仕事に対する考え、などいろいろと書き残していて、どれもそれぞれに熱意とこだわりにあふれていて本当に面白かったのだ。その歴史が丸ごとなかったことになってしまった。ショックである。こんなふうに過去の放送をないがしろにするくらいだったら最初から「デザインあ」の名前なんて使わなければよかったのに、とか思わなくもない。

 

めちゃくちゃ長くなった。このへんの話については丸一年ずーっとごちゃごちゃ考えてもやもやしていたので、自分の気持ちに早く何かしらのはっきりした説明がほしくて急ぎ言葉にしてみた。できるだけ冷静に受けた印象を書こうと努めたがどうしても勢いに任せてしまった部分もあり、まとまりを欠いているうえ、なまじ理性的になろうとしているぶんめちゃくちゃな論理を振り回している部分もあるかもしれない。後ろの段落に行くにつれて長くなっているのは言いたいことの量に比例しているというよりだんだん書きながら推敲しなくなっていったからです。ちょっと落ち着いて、もう少し時間をかけて気持ちを整理していきたい。

 

あと「TAROMAN」も全話観た。すごい……面白すぎる……!これから元気がないときなどに繰り返し見返すことになると思う。大勢の力ででっかい嘘を作り上げるさまってなんかぐっとくるよな。

 

あと居間に置いてあった今村夏子『むらさきのスカートの女』を読んだ。面白かった。同じ人のほかの小説も読んでみたいと思った。

 

あとDinosaur Jr.の曲をたくさん聴いた。自分はギターがうるさくてボーカルがなんか頼りない音楽が大好きだ。ところでこれは皆さんもそうだと信じたいのだが、Dinosaur Jr.とT. Rexとを混同していた。あれ20世紀少年のやつ無いじゃんと思ったところで気がついたんだけど気づき方も含めてミーハー丸出しで恥ずかしい。

 

 

 

腹筋とむき出しの世界

休学中はなんか全体的に腹に力を込めて過ごしたい。腹筋を強化すれば、なんか全てとは言わないまでもいろいろ解決しそうな気がする。猫背とかO脚とか、胃腸を壊しやすいのとかも良くなるし、3割増しで俊敏に溌剌と過ごせるし、前向きで明るい人柄になっちゃったりもするかもしれない。

今日も今日とて部屋にこもっていた。自室の本棚にあった天久聖一の『サヨナラコウシエン』を読み直した。すごく良いな~。電気グルーヴのMVとかのあのしっちゃかめっちゃかなテンションなのに、本当にまっすぐな成長譚で泣けてしまう。もうすぐ小学生になる少年ふじおが、死んだおじいちゃんとの思い出をたどりながら、大好きなおじいちゃんとの別れに向き合っていくひと晩の冒険の話。ファンタジーと突拍子のないギャグにあふれた賑やかな冒険世界で、出会う大人たちが皆本当に優しくて、ふじおを見守るまなざしの暖かさが沁みる。その中で、おじいちゃんが倒れた日の回想シーンだけショッキングさが際立っていて、脱衣所の床に横たわる大好きなおじいちゃんの裸体のグロテスクさとか、頼りにしている大人が本気で泣いているところを見てしまったときの心細さとかが異様に生々しい。守られたあたたかいメルヘンな想像力の世界にとつぜん隙間が現れて、冷たくて生々しいディテールの世界に投げ出されるこの感覚は幼少期に心当たりがある人は多いのではないか。ふじおは冒険の中でおじいちゃんとの死別と向き合ったけど、それは安心な世界に突如として開いた穴から見えたむき出しの世界と向き合うことでもあったのかもしれない、とか考えた。ところで当然のようにピーコが登場してファッションチェックをしたりしているのは大丈夫なんだろうか。

『サヨナラコウシエン』を久々に読んで感動した勢いで、天久聖一氏デザインのTシャツをポチってしまった。石抱きのやつ。夏も終わり掛けだけど到着が楽しみです。

https://twitter.com/amahisa/status/1558665477500592128?s=20&t=4FTakCca31hN_pjbLq0PnA